2017/02/21

はぐらかせない逐語的な隘路を

「太田省吾を〈読む〉――「未来」の上演のために」の劇場実験、『裸足のフーガ』の上演が18日に終わりました。たった1度きりの本番、台詞をひとことも削らずやった2時間と少し。1ヶ月とわずかという短期間での稽古でここまで来れたのは、身体と声を賭してくれたタフな出演者のおかげです。そして、上演の時間が濃いものになったのは、観客席の高い集中力があればこそでした。3作品の長丁場、お付き合い下さりありがとうございました。

書かれている台詞はすべて発語する、という自分のルールが、やがて、なにひとつはぐらかすことのできない逐語的な隘路に自分と出演者を追い立てていきました。声と言葉の倫理と葛藤。人間の口ごもりそのものが出来事として立ち上がるのでなければ、言葉とともに舞台に立てもしないという厳しさ。そして、社会的な属性や物語が極端にうすめられたふたりの人間が最小単位で関わりあおうとすること。
戯曲に書かれているのに自分が諾としなかった(できなかった)ことにもまた、言葉にするべき重要なものが含まれているように思います。たとえば、性別と距離、普通に立っては言えない詞章。

上演後の公開ラウンドテーブルと翌19日の非公開のディスカッションで、半年続いたこの研究会もいったん終了となりました。こんな機会はあまりに貴重で、自分のやっていることが試みるに足る作業なのかこわくもあり、いやでも愚直にやるしかないのだと、なんともひりひりする日々でした。研究会で交わされた言葉、与えていただいた示唆、これから自分が考えるべき問題、もりだくさんです。身体と現在と未来。もちろんそれは、原理から疑うことが課されているわけです。

上演を終えても、いまだ隘路のさなかにいます。その先にきざすものを、しぶとく探り、問うことによってしか進むことのできない隘路をゆきつづけることが、常にしょいつづける宿題だと感じています。
これからもしたためと和田の来し方/行く先を、どうぞよろしくお願いいたします。

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